教育制度を変えて発達障害でも生きやすい社会をつくる
教育の多様化に向けたハードルを越えて
新年度を迎えました。
日中の仕事をしているビルには、先週末から新入社員と思われる若い方々をたくさん見かけます。
わたしも新卒の頃は、全社員の前で初日の朝礼で紹介を受けたとき、政治家のように大声で「はじめまして!本日入社しました…」と挨拶をしてしまった思い出があります。
わたしにとって、新入社員とはそんなイメージだったのです。
それまでテレビでやっていた入社式の影響だと思いますが。
いまは日中ほとんど社内でも会話しない日もあるような仕事をしている人が、営業職で入社したわけですから…だいぶ無理をしていましたね。
本当の多様性は「多様性教育」では確保できない
さて、先週に引き続いて、次の「社会」について考えてみたいと思います。
先週まで、このブログでは変えていったほうが良さそうな社会の方向性について、「多様性」を認め、確保できる社会、というように表現していました。
多様な個性を持った人が生きられる社会、を目指したとき、まず目指すに値する価値だと思います。
ただ…そしてそれを確保するための教育は、制度としては今後「あるべき」ひとつ。
そんな考え方をしてしまっている自分がいました。
つまり、今の教育制度と同じような「義務教育」「学校」を無意識に想像してしまっていたんです。
学校で教える「内容」さえ変えていければいいと。
そんな安易な考え方でした。
ところが、ふとしたときに頭に浮かんだのは、価値や能力が多様化し、一定水準の労働者を一律に生産する必要がない社会では、「学校」がどれほどの意味を持つのか疑問なんではないか、ということでした。
これは産業革命前、義務教育が広がる前の状況、つまり教育自体、受けるか受けないかは自分または親・家系が決める社会、そしてどこで学ぶかも選ぶことができる社会があったことを考えると、たしかにもっともな疑問です。
今後、経済的な格差は広がっていき、教育にかけられる資金にも差が出ます。
能力だけでなく、言語や文化の問題も出ます。
個性や特性の問題も出ます。
発達障害などのように、一定の配慮が必要な子どもも、「一般」と「養護」「特別支援」のような分け方をされているので、さまざまな支障が出るわけです。
なので、教育制度としてのこれからの理想の姿は、学校だけでなくもっと多種多様な形態・規模の機関・施設・目的・人材などが、それぞれの意思でオープンに教育ができるようになるといいのではと考えます。
いまの学校教育のように、たとえ多様性を考慮したとしても「一様な教育」というものが成り立たない時代が、これから短期的にも訪れるはずです。
もちろん、いままでの学校教育が馴染む、向いている人もいるでしょう。
ただそれ以外、それぞれの方向性で個性が強い子どもたちは、それぞれ同じような個性・特性を持った先生、または目指す仕事をしている人のところで、いろいろなことの考え方の「模範」を見せてもらえるほうが確実にいい影響があります。
集団生活、社会性については小学校までに最低限慣れておけばいいし、何かの自分の情熱を見つけた人は、たとえ人前が苦手であっても自分の目的のためであればどうにかしてしまうものです。
義務教育制度改革と「教育バウチャー」の大きな可能性
こうなってくると、今度は「義務教育」という一見素晴らしい理想を掲げているように見えるわが国の制度は、多様性を阻害して一律の国民性を育てるために非常に強く機能する、ありがた迷惑な制度に見えてきます。
というのも小・中学校の9年間は、義務教育期間として原則就学させないと親が罰せられるという学校教育法の条文があり、施行令でも「出席させないことについて正当な理由がない場合」に罰則が適用される、とあります。
これでは、仮に今後優れた教育機関が出てきて、問題が多すぎる現在の小学校・中学校を見限って、その新たな発想の教育機関へ通わせた場合、適法になるのかが微妙なところです。
また仮に法的問題をクリアしたとして、教育費用の問題も出てきます。
義務教育だからこそ、国庫から多大な費用が賄われているわけです。
たとえば中学校の生徒で、授業料や教科書などにおよそ年間100万円の税金が使われているといわれます。
この費用を、公的な小中学校に行かないからといってそのまま負担するのは無理というものです。
こうした2つの問題は、一見簡単には解決できないように思われます。
ですが、どんどん変えていったほうが良い結果になるような気がしてなりません。
昨今のニュースを見る限り、小中学校教育の制度疲弊はすでに限界を迎えているように思えませんか?
家庭は、義務教育というものがあるがために「学校がするべき」と思い違いをしてしまうところが多くあります。
でも実際には家庭での人格教育が前提にあるはずです。
一度しっかりと責任の所在を明らかにするべきです。
これからは子どもの特性を見極めて、「誰につかせるか」、という作業を家庭で行うようにしていく必要があると思います。
また教育費はいっそのこと、国庫が負担している金額をすべて「教育バウチャー」にして配布してしまうという発想で、ある程度解決できます。
教育バウチャーとは、簡単にいえば教育関連の施設にしか使えない商品券のことです。
現在、東北の子供たちの支援をしている「Chance for Children」などの団体が教育バウチャーを活用した運営を行っています。
そもそも税金から使われている現在の教育費は、もしかすると相当にムダがある金額かもしれません。
それを削減していく一方で「教育バウチャー」として配布して、教育を受ける先の選択肢を大きく広げる…
そんな未来があってもいいのではないでしょうか。
以上、思いつきでズラズラと書いてしまいました。
実現にはさまざまなハードルがあると思います。
実態はそう簡単ではないかもしれません。
しかし、やるしかない。
動き出してみなければ、どんなハードルがあるのかさえ分からないままです。
わたしたちが生きやすい理想の社会実現へ向けて、少しずつでも歩みを進めていきましょう。
***<ファーストシーズン「大人の発達障害改善のヒント」全78記事の目次はこちら>***
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