「自立しなければ生きづらい社会」を変えるということ
自立は「個人」を無視して「人間」だけを考慮にいれる社会だから必要になった
うえすとです。
今朝、このブログの機能を利用いただいての読者登録(「読者になる」)者が200人になりました。
大人の発達障害というテーマで、しかも「働く」ということに焦点を当てたこのブログが対象としている人はそれほど多くないはずです。
ざっくりと、ADHDとアスペルガー症候群の有病率が全体の3~4%として、それに含まれないけれど困り感のある人もいるので倍の6~8%。
そのうち大人になるまで診断されないのが、これは勝手な想像ですが現在の社会人でいうと7~8割?
ということで、それくらい対象になる方が少ない中での200人はたいへんな数字だと思っています。
もちろん少なからずわたしの励みになっている部分でもあります。
ご登録、本当にありがとうございました。
また、はてなアカウントをお持ちでない方からの登録も多くいただいているようです。
「はてブ」という「はてな」グループさんが推しているソーシャルコミュニケーションな要素(ボタン)を広めるという点でも、媒体としてお世話になっている「はてな」グループさんのお役に少しでも立てれば幸いです。
さらに、先日Twitterでもつぶやいていますが、昨年12月に出版した「発達障害の自分の育て方」が再度増刷されることになりました。
これで発売4か月を待たずに第3版ということになります。
手に取っていただいたみなさま、本当にありがとうございます。
こうした流れの背景には、もちろん注目されているテーマであることは影響していますが…
まず「自立」するというアプローチが、現代社会のほぼすべての人に当てはまる重要テーマである中、大人の発達障害の特性を持ちながら生きる人に特にマッチしたのかもしれません。
ということで、なぜこれほどにマッチしたのか?の原因を模索していたところ、いろいろと過去に「本来の人間のあるべき姿」を研究した人の主張が見つかりました。
科学偏重の社会と人間のあるべき社会のミスマッチ
人間の本質をテーマにしている本の中で、古い著作なのに日本でもかなり売れた本があります。
ノーベル生理学・医学賞を受賞したアレキシス・カレルが1935年に出版した、「人間ーこの未知なるもの」も、そのうちの一つです。
人間 この未知なるもの―人間とは、いかなるものか何が人生の原動力になるのか
- 作者: アレキシスカレル,Alexis Carrel,渡部昇一
- 出版社/メーカー: 三笠書房
- 発売日: 2007/07
- メディア: 単行本
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1935年のフランスといえば、ヒトラー率いるナチスドイツへの危機感を高めていた時代。
第2次大戦の前に、カレルは現代日本が陥っているような状況を見通して、科学偏重の時代における「人間再興」の方法論を説いていたんです。
そして日本における知の巨人、渡部昇一さんが、大学生当時に教授に勧められて本書を繰り返し読み、その後の執筆活動のベースをつくったと自ら語っている本でもあります。
(上に引用した以外に、少し古いですが文庫版もあります)
まず簡単に、わたしが受け取った本書のメッセージがこちらです。
「科学的なものの見方」というのは、とにかく要素を細かく分解して、具体的な事実を一定の法則に抽象化します。
この法則の発見は人間以外の部分でとてもよく発展して、人間の生活を便利にしてきました。
ところが、人間そのものの研究は、その複雑さも手伝っていますが科学よりもまったく遅れていて、科学が偏重されて設計された現代社会は、人間にとってたくさんの悪影響をおよぼしています。
もっと人間をよく理解して、その正しい理解のもとに新しい仕組みをつくるべきだ…
…というのがメインメッセージだと思います。
最後の新しい仕組みづくりについてはそれほど多く語られているわけではありませんが、ヒントはものすごくたくさんあります。
そしてどれだけ今の社会が、本来の人間のあるべき姿や育つべき環境というものを無視して作られているのかを考えさせられる内容です。
余談ですが、ドラえもんが「こんなロボットがいたんでは子供が成長しない!」という理由でフランスでは放送禁止、というウワサ(実態は事実無根)が最近流れましたが、
「ああなるほど、こんな本が80年以上前にたくさん売れている国ならありえるなぁ」
とおもわず思ってしまうような、といえば少し内容を推し量っていただけるでしょうか…
自立があたりまえの生活を科学主義が変えた
わたしはこのブログを通して、まず「自立」することで社会から受けるストレスを大きく改善させる方法をご紹介しました。
自分の考えと他人・社会の考えを分ける、ということがなぜこんなに個人の中でインパクトを持つ作業になってしまったのか、ということを考えたとき、『現代社会は、「個人」を無視する。』で始まるこの本が説明している以下のことは大変な説得力があります。
現代社会は、「個人」を無視する。一般的な「人間」だけを考慮に入れる。そして普遍的性格の実在を信じ、人を抽象概念として扱う。個人と一般的な人間の概念を混同することにより、産業文明は人を規格化するという根本的な過ちを犯すに至っている。
わたしの本に書いたかブログで書いたか覚えていませんが、産業革命以降、いまの学校制度は社会に出て「歯車」として働ける労働者を育てるように設計されたとみなされても仕方のないほど、個人の「人格」「個性」といった面を2のつぎにしたものです。
そしてその学校制度は、技術の習得をその目的の基本に置き、個性を発達させることを目的としたものでは(お題目として掲げていたとしても、実質上は)ありません。
このあたりのことをカレルはかなり厳しく批判しています。
犬小屋の中で、同じ年齢の他の子犬たちと育った若い犬は、両親と一緒に自由に駆けまわって育った子犬のようには成長しない。
優生学(極端にいうと、優れた能力を持つ人間だけを残していくこと)を支持しているこうしたカレルの言葉の前提には、「ある程度の知的能力のある親」の存在がありますが、ノーベル医学賞を取るほど人間に精通した人のこの言葉には、学校制度変革への大きな示唆があるといえます。
教育現場にタブレットを導入したり、MOOC(大規模公開オンライン講座)といったITによる教育の変革は、そうした意味では(単独では)まったく人間の教育の本質とは真逆のものだといえます。
こうした高度にテクニカル(科学的)な教育の発展を本当に活かすには、もう一方でそれを利用する人間の「個性」「人格」の発達を確保するための、高度な理論発展の必要があるはずです。
ところがいまは、オフィシャルにはそれが全く欠けている状況ではないでしょうか。
社会を変えること=わたしたちがまず変わること
元々「自立した個人」が前提だったはずの人間社会を、科学偏重の視点での制度設計が大きく変えてしまいました。
その事実を認識したうえで、では次はどんな制度・社会にしてけばいいのか。
少なくとも、その変化によって大きな影響を受けているわたしたちは、真剣に考えるときだと思います。
これからもわたしは微力ながら、自分の経験の分析から引き出した「大人の生き方3.0」の発想をベースに、たくさんの関係業界の同じような問題意識を持つ方と対話を重ねて、実現可能で、そして変える価値のある社会への種をまいていこうと思います。
引き続き、前向きなご意見ありましたらブログ掲載のメールアドレスまでどうぞよろしくお願いいたします。
***<ファーストシーズン「大人の発達障害改善のヒント」全78記事の目次はこちら>***
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